好きな人ができたら、ずっと一緒にいたくなるもの。
今も昔も、恋する心は同じだと、語っている万葉集です。
編者といわれる、大伴家持の詠った情熱的な歌を、前回に引き続いてお伝えしたいと思います。
前回は、「誰も他にいない国へ行って、二人だけでいたい」と詠う、家持の歌をご紹介しました。
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今回は、その続きになります。
夢の逢ひは 苦しかりけり 覚(おどろ)きて 掻き探れども 手にも触れねば
大伴家持が、後に妻になる坂上大嬢(さかのうえのおおいつらめ)に宛てた歌です。
意味です。
「夢のなかであなたに会うのは苦しいことだった。あなたの夢をみて、目を覚ましてもまだそこにあなたがいると思って、手探りしてしまったけれど、その手にさえも触れられない。つらいなあ」という感じでしょうか。
あまりにリアルな夢をみることって、時々ありますよね。
恋人に会えたことが、ただ嬉しくて、目が覚めても夢だったと最初は気づかないほどだったのでしょう。
嬉しかったぶん、夢だったと気が付くことの辛さといったら・・・落胆はどうしても大きくなります。
前回は、「堂々と手くらいつなぎたい」つまり、「おおっぴらに手もつなげない」と嘆いていましたが、今回は、「手も触れない」と、その嘆き度合いは大きくなっています。
夢でもつらい。それが恋なのでしょう。
相思相愛で、身分や何やらの障害がない二人でも、これほど焦れったくなるのですから、恋するエネルギーって、それほど大きいものなんだとあらためて思わされます。
そう、この二人は、禁断の恋でもなんでもなく、親さえ認めれば、普通の恋人どうし、結婚だってできる間柄だったにも関わらず、なのです。
このあと、家持は、こんな歌も詠っています。
一重のみ妹が結びし帯をすら 三重結ぶべく 我が身はなりぬ
「あなたが一重むすんでくださった帯も、今は三重むすびになるほど、私は痩せてしまいました」という意味ですね。
本当でしょうか・・・ここまでくると、嘘っぽい感じですけど、それほど身を細る思いをしていると、アピールしているのでしょうね。
オーバーな表現も、恋人どうしの間では、それが心地よいんですね。
そう、家持たちも、現代でいうバカップルなところは負けていなかったようです。
さらにこのあと、家持は、もっと会いたいんだよ、という気持ちを押して押して押しまくってきます。面白いです。
そして、坂上大嬢も、それに応えて歌っています。
遠からばわびてもあらむを 里近くありと聞きつつ 見むがすべなさ
「(会いたい会いたいって言ってるけど、)遠くに住んでるわけでもないし、その気になればいつでも会えるはずじゃないの(でも会いにこないのはそっちじゃない)」。
これは、すねてるように見えるのが、可愛いというべきでしょうか。
万葉集にも相聞歌はたくさんありますが、家持の恋歌は、今に通じる恋人らしさ、つまり普遍性が感じられるように思います。