お正月に訪れた薬師寺で、偶然、お坊さんの説法を聴くことができました。
お話上手な僧侶の方が多い薬師寺のなかでも、特に人気の高い方で、途中、涙があふれそうになって困った私です。
もともと、信心深いわけでもなく、お坊さんの話というと説教くさくて敬遠気味だったのですが、心にしみたお話をシェアしたいと思います。
薬師寺の見どころについてはこちらです。
https://beauty-kireininaru4.com/yakusiji-temple-viewpoints/
薬師寺で聞いた説法は、小一時間の短いものでした。
般若心経のことから日本人の性質など、飽きさせない語り口で、聴いている人をときに笑わせながら、心に響くお話でした。
私の心に残ったものを、以下に記してみたいと思います。
①人にとって大事なのは「和」である
説法のはじめに、お坊さんがお話されたのは、こんな内容でした。
「この世の中で、争いごとが起こるとき、どうすればいいのか。そんなときに大事なことを、私たち日本人は良く知っているはずです。
それは、日本語でいう「和」です。
和、という漢字は、のぎ辺に、口と書きます。
これは、人々が車座になって座り、農作物を口にする、という姿を表した字です。和というのは、そういう意味であり、私たち日本人がこれまで行ってきたことなのです」
私は、和の心というと、個人主義とは反対語であると思ってきました。
自分を抑えて、周りに合わせることを、和、だと思ってきたのです。
でも、そんなことではない、ただシンプルに、他の人と一緒にご飯を分け合って仲良く食べる、そういう意味だったと知って、目から鱗が落ちました。
そして、調和こそが、この社会で大事なことだと、強調されていました。
誰もがエゴをもち、それは当然のことなのだから、それをいかに調和させるか。
そこに頭を使うことが求められているのです。
そう考えたら、日本人こそ、良いアイデアを出せるのではないか、と思えてきました。
②観自在とは、自分の在りようを観ること
般若心経は、その冒頭に「観自在菩薩」と書かれています。
それはなぜなのか。こんなふうに話されたと記憶しています。
「みなさんは、小説『雪国』の書き出しの部分を知っていますよね。トンネルを抜けるとそこは雪国だった。では、『吾輩は猫である』はどうでしょうか。吾輩は猫である、名前はまだない。たとえ小説の内容は知らなくても、誰もが知っているフレーズです。般若心経も、同じです」
たとえ中身の意味はわからなくても、この冒頭にこそ意味がある、それが冒頭の「観自在菩薩」ということでした。
観自在菩薩とは、一般にいう観世音菩薩のことで、菩薩とは、悟りを得ようと修行していながら人々を救う方のことです。
では、観自在とはどういう意味なのか。
それは、自分自身を観る、ということなのだと話されました。
「人は、自分の背中は見えません。その分、他人のことはよく見えますし、批評もします。誰もが、他人について話させたら立派な評論家になるのです。他人に対して、指をさすことは得意なんですよ」
「でも、その、他人に向けている人差し指を、自分の方に向けてみたとしたらどうでしょう。ほとんどの人が、自分のことは分からないのです。見えていないのです。だから、自分を観ることが、大事なのです」
なるほど、と思いました。
確かに、他人のことはよく見えるし、何とでも言えますが、誰も自分の背中を鏡なしで見ることはできないから、自分のことを観るのは苦手なんですね。
自分の在りようを観ること。これは、人間関係で悩むときにも、他人ではなく自分を指さすことで、何か方法が見えてきそうに思います。
③ギャーテーの意味は「私は行く」
般若心経の終わりの方で、「ギャーテー」という言葉がでてきます。
羯諦、と書くのですが、この意味については、さまざまな解釈があるようです。
4回もでてくる、ギャーテーという言葉。
高田好胤和上は、これを「行こう、行こう」と訳していて、「私は行く」という意味なんだそうです。
「夢に向かって進め、進め、何があっても、進め、進め」と、何をおいても、まず行動することの大切さを伝えようとしているのです。
シンプルな言葉こそが心を打つときがあります。
まさにこのとき、私は、目から3枚くらいの鱗が落ちた気分でした。
④まとめ
人と分かり合えないとき、他人を悪く言いたくなるとき、まずは自分はどうなのか、自分の方を観てみようと思います。
そして、悩んでいるだけでは解決には至りません。行動することこそが、大事だったのです。
そして、自分の正義と、他人の正義、そのぶつかり合いのなかに、どこか調和できるポイントがないのかと、考えてみることの大切さを、教えてもらったように思います。
⑤番外編 万葉集の歌
さて、薬師寺を完成させた、持統天皇の万葉集歌にこんなものがあります。
「いなと言へど 強ふる志斐(しひ)のが 強語(しひかたり) このごろ聞かず 我恋ひにけり」
訳はこんな感じでしょうか。
いやだと言っているのに、無理強いして聞かせる、志斐の媼のおしゃべりを、最近は聞いてないわね。久ぶりに聞いてみたいわ。
この歌のあと、その志斐の媼なる女性が、返して歌っています。
「否(いな)と言へど 語れ語れと詔(の)らせこそ 志斐(しひ)いは奏(まを)せ 強語(しひかたり)といふ」
もうお話しませんと申し上げているのに、無理に私に話させているんですから、これこそが強語(しひ)=志斐語りというものです。
天皇の志斐媼に賜へる御歌、とあるので、志斐の媼というお付きの女性に、からかって言ってみた、というシチュエーションなのでしょう。
持統天皇の茶目っ気が感じられて、楽しい気分になる歌です。
ただ、この天皇というのが、文武天皇だという説もあるので、確かなところは分からないのですが、私はこれは女同士の会話だと思いたいです。
人との関係も、ユーモアを交わすことのできる間柄が、やっぱり安心できます。
そんな友情を育むことが、生きている楽しみだったりするのだと、あらためて思い出させてくれる歌でした。