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祟りって信じますか?
現代人から見れば、祟るということ自体が眉唾ものであると、私は思います。
そうは言いながらも、この世の因果応報についてはどこかで信じている、とも思うのですが、あなたはどう考えますか?
奈良時代の政争とその犠牲となった皇子についての第二弾です。
これが今回の万葉集の歌です。
「新しき 年の初めに 思ふどち い群れて居れば 嬉しくもあるか」
新しい年の始めに、うちとけた者どうしで集うのは、実に嬉しいことだ、という意味でしょうか。
この、新年会の一コマを爽やかに詠ったのが、道祖王です。
ふなどおう、と呼ばれるこの皇子は、聖武天皇が亡くなる際には、次期皇太子と指名されていたお方でした。立太子だったんですね。
天武天皇の孫にあたり、藤原氏の血も流れていて、聖武天皇の傍で任務についていたので、その人間性や仕事ぶりからも、天皇に見込まれていたといいます。
ですが、聖武天皇の死後、天皇の娘である孝謙天皇に廃太子にされてしまいます。
藤原仲麻呂が、別の皇太子を立太子したかったからですね。
仲麻呂は、藤原4兄弟の長男・武智麻呂の息子です。
そして、これは長屋王の変から28年後のことです。
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廃太子だけでは終わらず、さらなる仲麻呂の策略によって、道祖王は非業の死を遂げます。
以下、そのストーリーをかいつまんでお話します。
その頃、藤原勢力の強さに反目して、橘奈良麻呂の乱と呼ばれた、反乱が起ころうとしていました。
が、それは密告によって事前に明るみにでてしまいます。
光明皇太后、孝謙天皇の二方は、奈良麻呂が左大臣・橘諸兄の息子であることもあり、これを穏便にすませようとしたむきがあるようです。
ですが、藤原仲麻呂はこれを好機と、自分に反目するもの、自分の出世に邪魔になるものをどんどん粛清していくのです。
奈良麻呂がどこでどうやって死んだのかは謎のようですが、死んだことに変わりはなく、関与した貴族・皇子たちは何人も獄死しています。
流刑や降格なども合わせると、なんと400人以上の人が沙汰を受けたともいわれています。
仲麻呂おそるべしです。
そのなかにあって、道祖王は、実は、まったく事件に関与していず、拷問にかけられた人々の口にもその名前が出ていなかったにも関わらず、どさくさに紛れるようにして捕らえられてしまいます。
そして、同じく拷問にあって亡くなってしまうのです。
まったくもってひどい話です。仲麻呂の陰謀といわれています。
ですが、この数年後に、今度は、仲麻呂が失脚することになるのです。
前回、長屋王の変と、その祟りについてお伝えしました。
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当時の民たちも、道祖王の死については同情的であり、懐疑的でした。
生活の困窮と執政への不満から、乱の直後に、その祟りについて噂したり妖しげな話を広めたりしたこともあったようです。
孝謙天皇が、詔で、これ(妖話の類)を禁じたことから逆に分かることだといいます。
怨霊の存在を信じるとして、仲麻呂が敗れて亡くなったあと、怨霊の気は晴れたのでしょうか。
というのも、この道祖王については、そういった怨霊や祟りという話はあまり聞かないように思うからです。
亡くなった経緯を見ると、長屋王に比べても、道祖王の方が余程長く祟って然りと思われるのですが・・・
道祖王は、きっと、本当に良い人だったのでしょう。
見栄えも良い人だったに違いありません。
廃太子にされたときの言いがかりが「聖武天皇の喪中なのに隠微な行為をして云々」ということでしたから、男ぶりも良かったのだろうと想像します。
それなのに、聖武天皇の信頼が仇になって、悲劇が起こってしまったのです。
聖武天皇が立太子にしなければ、殺されることはなかったでしょうから。。
お気の毒だと思うのと同時に、権力争いの凄まじさと、勢いに乗っていた藤原仲麻呂の恐ろしさを感じます。
でも、後世に語り継がれるほどの祟りは起きず、人々に「祟る」と言われ続けていないのは何故なのでしょうか。
何度も言いますが、この皇子・道祖王(ふなどおう)もまた、高潔で実直でまじめな、良い人間のタイプだったのでしょう。
万葉集の歌も、とても微笑ましく、好青年の姿が目に浮かぶようです。
そんな人間が無差別に人に祟るわけがないとも思うのです。
自死した長屋王が祟る、と人々に言われ、拷死した道祖王が祟らないのはなぜか。
民衆にそう思われるのはなぜか、とても気になります。
どちらも血統がよく、能力があり、人格も見た目も良いという条件のもとで、この差は何なのでしょうか。
ただ単に、事件後、疫病や天変地異などの不可解な現実が起こったかどうか、という違いなのかもしれません。
実のところ、標的となる憎い相手がどちらも早々に失脚しているのは、あくまで疫病と、時代の趨勢であって、祟りではないのだとは、思います。
それでも、このお二方の死の受け止め方が違うのはなぜなのか。
ひとつ、考えられるのは、こんなことです。
長屋王は、その邸宅が昭和の終わりに見つかっています。そのときに「長屋親王」と書かれた木簡も見つかりました。
つまり、現代になるまで、彼が親王=皇位継承者であった証拠がなかった、長く明らかにならなかったということになります(本当に親王であったたかについては諸説あるようです)。
一方、道祖王は、その名に見られるように、一般民衆の道祖神信仰へ移っていったという考え方があるようです。
つまり、神としてたたえられてきた、という見方もあるのですね。
そう考えるなら、道祖王は、祟る必要はないですし、今はもう皇子ではなく、一人の神さまになっているのだから、誰もそこに祟りや怨霊を見ることはないのかもしれません。
でも、奈良に道祖神ってあるのでしょうか。。それはそれでギモンです。
道祖神って、関東に多くあるイメージです。
・・・と思ったら、思い出したことがありました!
ならまち、猿沢池の近くに、道祖神を祀っている神社があるんです。冒頭の画像です。
街歩きをしていて、ここを偶然みつけたとき、珍しいな、と思った記憶があります。
祭神は、猿田彦命と市寸島姫命ですが、猿田彦命は道案内の神でもあり、賽神でもあり、そのあたりが融合したとも考えられます。
(もっといえば、この近くに庚申堂〈こうしんどう〉もありますしね。猿と申でサルつながりです)
そして、さらに、春日大社の中に「船戸神社」という小さなお社があって、字は違いますが、読み方は同じ「ふなど」です。
車のお祓いをするときの神社のようですので、道祖神と関連がある気もします。
悲劇の皇子でも祟らないのは、天神さん、つまり菅原道真のように、正真正銘の神さまと今はもうなってしまって、人々の生活に溶け込んでしまっているからなのかもしれない、と私は思うのですが、いかがでしょう。
長屋王、道祖王と、大津皇子のほかの悲劇のプリンスの歴史をたどりました。
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奈良について、ご興味を深めていただくキッカケになれたら嬉しいです。