二上山と當麻寺、濡れ衣と聖女伝説から見えてくる、悟りについての現代考

當麻寺訪の続きを書いてみたいと思います。

 

体験したことに加えて、二上山のふもとにある當麻寺ゆかりの二つのストーリー、「中将姫伝説」と、折口信夫の書いた「死者の書」からも、見えてきたことがありました。

 

前回、ご紹介しました、當麻寺の見どころについてはこちらをどうぞ。

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當麻寺から帰ってきて日常に戻ると、あの奈良時代の空気を感じられたお寺での体験が、別世界の出来事のように感じられます。

 

お寺の立地、ロケーションも、非日常への入口に一役かっていたかと思います。

 

①二上山の持つ魔力

 

今回、當麻寺を訪れるにあたって、二上山を見ることも楽しみの一つでした。

 

二上山は、吸引力のある山です。

 

奈良の山は、どれも魅力的で、それぞれに神話や伝説を持っていて、古代の神々が今も鎮座している気にさせられますが、そのなかでも、二上山は、形と言い、名前の響きといい、また伝承の不思議さには妖しい香りが満ちていて、怖いもの見たさの気持ちを掻き立てられます。

 

以前、私が神戸に住んでいたことがあり、その頃に奈良へ行くときは、いつもJRを使っていました。

 

天王寺駅を過ぎて、布施駅あたりを過ぎると、町の風景から山の中へと、車窓がぐっと変わってきます。

大和川を見下ろし、山のトンネルをぬけて、見えてくるのが二上山でした。

 

雄岳、雌岳と、ラクダのこぶのような二つの頂をもつ姿は、非日常への入口のような気もして、見るたびに心がワクワクしました。

 

今では「にじょうざん」と呼ばれるこの山は、古くは「ふたかみやま」と呼ばれていて、悲劇の皇子、大津皇子のお墓があるといわれています。

 

現在では、その墓が大津皇子のものとは異なるという説もあるようですが、少なくとも、古代より信じられてきたことは事実です。

 

天武天皇の子であり、英知に長けたイケメン皇子であった大津皇子は、天皇が亡くなってすぐに謀反の疑いをかけられて、無念の死をとげています。

この事件の首謀は天武天皇の后、持統天皇だともいわれていて、系譜からみれば、少々乱暴な言い方ではあるものの、継母に殺されたと言えるかもしれません。

 

継母に殺されそうになったのは、中将姫もそうでした。

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中将姫に関することは、伝説が主体なので、本当に継母に殺されそうになったかどうかは定かではないとも思います。

ですが、周囲から妬まれるほど美しかったり、賢かったりするという点は、中将姫も大津皇子も共通していそうですし、それゆえ、誰かから逆恨みや濡れ衣をかけられてしまった、というのは想像しやすく、現代にも通じるのではないでしょうか。

 

つまり、悲劇というのは、いつも、過ぎた美や智など、過分なことから生じるように思うのです。

 

例えば、親切心は、過ぎてしまえばただのお節介になりますし、逆に叱咤激励も、過ぎるとプレッシャーとなってしまいます。

 

どちらか片方へ行き過ぎないで、中庸を求めること、二上山はその姿から、そんなことまで語りかけているのではと思ったりするのです。

 

②「死者の書」と「中将姫伝説」

 

奈良市内に住んでいる私は、今回、近鉄電車で樫原神宮前まで行き、そこで乗り換えて、当麻寺駅に向かいました。

 

車窓は、三輪山や大和三山を背に、だんだんと金剛山と葛城山が近くなり、二上山が見えてきます。

 

古代より、大和では、三輪山から陽がのぼり、二上山に夕陽が沈むものとされてきました。

 

極楽浄土を西とする仏教の教えから、この二上山こそが極楽浄土の方角であるとされ、三輪山とともに信仰の対象であったことは容易に想像できます。

 

そのうち、二上山の二コブの間に陽が沈むのが、春分と秋分の日だといわれていて、「死者の書」(折口信夫著作)では、このときに、中将姫が二上山の頂に佛のお姿を目にしています。

 

だから、大阪方面から奈良に入るよりも、このルートの方がより古代に近い感覚を味わえるのかもしれません。

 

そして、当麻寺駅から、二上山に向かって歩くのが、當麻寺への参道になります。

新旧入り混じった民家を越え、国道を渡り、再び民家の間の細い通りを過ぎて、當麻寺の仁王門へたどり着きます。

 

中将姫伝説では、姫は西の二上山に沈む夕日のなかに、極楽浄土の世界を見て、それを人々にも見せたいと、浄土図、つまり當麻曼荼羅を一晩で織り上げたとされています。

そして、如来の導きで、生きながら極楽浄土へと旅立つのです。

 

この伝説にあるように、當麻曼荼羅を一晩であったかどうか、そして、この曼荼羅自体が、はたして中将姫の手によるものだったのかも事実だったのか定かではないところです。

 

そうはいっても、中将姫伝説のモデルとなった女性というのは、確かにいたと私は思います。

 

當麻寺の本堂には、このとき姫の機織りを手伝ったとされる、十一面観音菩薩像が「織姫観音」と呼ばれて祀られていました。

 

一晩で4m四方のつづれ作品を織り上げるというのは、現実的に考えるとありえないと感じますが、織るのを手伝った女性も確かにいたのでしょう。

 

でも、それが観音さまだったのかどうか、きわめて疑わしいと思う私です。

それに、どう考えても、やはり一晩というのはムリがあるだろうと感じました。

 

ですが、実際にお寺おを訪れて、写仏もして帰り、家で色々と調べて、ゆっくりと記憶をたどっているうちに、そんな数々の不思議な出来事も、もしかしたら本当にあったことなのかもしれない、と思う瞬間がありました。

 

大津皇子と中将姫をつなぎ合わせた、「死者の書」のストーリーを思い出したことも、その理由かもしれません。(以下4段、ストーリーのネタバレがあります。本書をこれから読みたい方は、飛ばしてお読みください)

 

高貴な人、優秀な人、しかも美貌の持ち主でもあった大津皇子が、濡れ衣、いってみれば冤罪で死刑になり、二上山の墓に葬られていたのを、50年も経ってから目覚めて、執念にとりつかれます。空恐ろしい展開に驚くとともに、そこに、ある種の人間臭さも感じられる気がします。

 

どんなに高潔な人であったとしても、冤罪で殺されたのなら、恨みや思い残すことはたくさんあったことでしょう。

 

そして、恋しい人の子孫である姫のところに、ひたひたと偲びよるのです。妻になれと声をかけ、白骨の指を見せるという、ゴシックな恐怖。

 

けれど、姫の方が上手でした。というより、もっと、ずっと純粋で賢かったのでしょう。彼女は、そんな皇子のためにと機を織るのです。

二上山の向こうに何度も見た、仏さま、如来さまに導かれるようにしての行動でした。

 

そんな姫の機織り一晩伝説は、ある意味ひとつの象徴なのかもしれません。

 

人間ならだれもが、潜在意識の中に隠れた執念を持っているものです。

その執念が浄化していくことを悟りとするなら、執念が晴れて悟りに至るのは、「一瞬」だったのではないかと思うからです。

 

あるいは、一瞬の永遠、であることを伝えようとしているのではないでしょうか。

 

極楽浄土を描いた當麻曼荼羅は、仏から、修行を積んだ姫へのご褒美とも考えられます。

そうだとすれば、織り上げた時間を一晩とカウントするのは、とても自然なように思えてきます。

 

③當麻寺の空気感

 

二上山の風貌と、當麻寺の空気は、現代人を奈良時代やそれよりもっと古へ連れていってくれるようです。

場所の持つ磁場のようなものがあるとしたら、當麻寺には間違いなくそれが残っています。

 

そして、現代人だからこそたどりつける、真実への架け橋の存在、つまり何が本当であるかを探し出すツールの存在を、信じさせてくれる場所なのだという気がしています。

 

中将姫は、千本の経本を写したといいます。

その努力と偉業は、疑いようのない真実で、現実のことだと思うからです。