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大伴家持は、その生涯のほとんどをいわゆる「転勤族」として、あちこちに赴任させられて過ごした人でした。
大伴家の家長としての務めを果たしながら、繊細かつ感性豊かな歌をいくつも詠み、万葉集の編者の一人ともいわれています。
そんな家持が、最初の転記となる越中・富山へと、まだ赴任する以前の若き日に、詠った歌をご紹介します。
たまきはる命は知らず松が枝を 結ぶ心は長くとそ思ふ
万葉集といえば、額田王をはじめ、柿本人麻呂や山上憶良、山部赤人などの歌が有名で注目されています。
ですが、編者の一人とされている大伴家持の歌には、現代に通じるこまやかで繊細ながら、ときには大胆な比喩や隠喩などがちりばめられて、素朴さのもつ普遍性があるように感じます。
事実、万葉集の後半には、家持の日記集ではないかとも思える歌が綴られています。
政治家としても、晩年まで精力的に活躍した家持ですが、万葉集の最後尾の歌を載せたのは、家持41歳のときの歌。その後も歌を作っていたのかどうかは定かではありません。
今回の歌は、そんな家持26歳の若き日のものです。
意味は、「このあとどのくらい生きるのか、その寿命は分からない。しかし、私たちが松の枝を結んだ気持ちは、ここにいるみんなの命が長いようにと願っているのです」。
松を結ぶ、というのは、おまじないのようなもので、旅の安全や息災を祈って、松の枝の先を、くるっとまわして結ぶ、という習慣の一つです。
これが歌われたのは、家持が、親友の市原王たちと、聖武天皇の息子である安積親王のお供をしたときではといわれています。
先に、市原王が、松の歌を詠んでいます。
一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の音の清きは年深みかも
この一本松はどれほどの年を経ているのか、吹く風にゆれる音が清らかで神々しく、長い年月を経っているにちがいない、という意味でしょうか。
恭仁(くに)京の裏手にある活道(いくじ)の岡に登って、そこの一本松の下で酒をくみかわした、と記されています。
とても立派な、風格ある一本松だったに違いありません。
これは、平城京から、恭仁(くに)京へ遷都した際のことですね。
恭仁京は、奈良山の北で、今の木津町、山城町のあたりになります。
今、地図でみても、なんでこんなところに。。と疑問の浮かぶ、交通の便のよくないところですが、その分、平和な場所だったのでしょうか。
まだ20代半ばの家持が「この先の寿命は分からない」と詠っているのは、齢 50になった私が見ると、その分からなさ加減は、政治情勢の不安なのか、若さゆえのはてしなさなのか、定かではない感じがします。
実際に、年長者の人たちが、権力を持っては、策略のすえ滅亡していく姿を、家持はいくつも見ていたことでしょう。
もし、自分がそんな政争に巻き込まれたとしたら。
たとえ長寿の運命をさずかっていたとしても、それを全うできるかどうか、不安に思うこともあったのではと想像します。
それとも、単に、若者らしい戯言的な想像力で、「いつまで生きられるか分からない」と言ったのかもしれません。
このあと、家持は、激動の人生を歩むことになるのです。
転勤先の一つ、越中で詠んだ歌はこちらです。
https://beauty-kireininaru4.com/ohtomonoyakamochi-yanagi/
https://beauty-kireininaru4.com/alone-trouble/
家持自身は、当時にしては長寿の方の、67歳くらいまで生きた人なので、この歌自身は、縁起がよいのではと思います。