転勤族だった大伴家持が奈良の都を恋い偲ぶ、万葉集の歌から見えること

万葉集より、大伴家持(おおとものやかもち)の歌を鑑賞して、現代にも通じる人の心をみています。

 

編者の一人で、最終統括者のような役割をしたのかもしれない、といわれている家持ですが、自身の歌も四百数十首おさめられています。

 

今回は、赴任先の越中・富山で詠んだ歌についてお伝えします。

 

前回は、春の日に憂える貴公子・家持の、思い悩む心を見てみました。

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さて、今回もまた春の歌です。

 

「春の日に 萌(は)れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ

 

これは、越中、つまり富山へ5年ほど赴任していた頃に、奈良の都をしのんで歌ったもののようです。

 

奈良の都とは、平城京のことですね。

現在は、平城京跡歴史公園として、広大な敷地が保存、公開されています。

 

朱雀門も復元され、南側の朱雀門広場から南に伸びる「朱雀大路」と、東西の道「二条大路」もまた、当時の風情をイメージして整備されています。

 

さて、その大路には、柳の木が並んでいたことが、この歌から判ります。

 

赴任先で、柳の新芽の緑を見つけ、それを手に取ってしげしげと見ていて、平城京の大路にある柳のことを思わずにはいられない。そんな望郷の想いを歌っているのですね。

 

その一方で、柳の葉はお化粧をした女性の眉ともいわれるようです。

それなら、これは赴任先で新たな恋人ができ、故郷に置いてきた恋人のことを思い出した歌なのか?と邪推したくもなります。

 

それはさておき、家持は、この富山の任地で、わりに伸び伸びと暮らしたようです。

ときには都を恋しがりながら、この地の自然を歌に読み込んで、歌人としての腕もあげたのです。

 

また、前回お伝えしたように、大伴家は、藤原一族の台頭で、衰退の道を歩んでいた頃でもあり、政治の世界も揺れに揺れていた時代でした。

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このときだけでなく、飛鳥時代も藤原京でも、さらには後の平安京でも、政治はいつも揺れているともいえますが、大伴一族の長でもあった家持は、心労が絶えなかったようです。

 

この後、藤原氏への反発から反乱や反乱未遂は何度も起こります。

ですが、ひとまず、このとき家持は都を離れていたのですから、地方に住むことで、それはそれでのんびりできる部分もあったのかもしれないと想像できます。

 

都会を離れて、田舎で暮らす。現代なら、さしずめそういった感覚にも似ていたかもしれないです。

 

そう考えると、この歌の「大路し思ほゆ」の「思ほゆ」の部分は、憂える意味だけとはいえない気がしてきます。

 

というのは、手にしているのは「」だからです。

 

柳は、その姿形から見ても、ゆらりゆらりと風任せに動きます。

頭を垂れて、従順にみえる柳の葉は、「柳に風」の言葉があるように、何事もやんわりと受け流していく、ひとつの処世術にみえなくもないです。

 

平城京で、柳のようにかしずく元・同僚たちを思いだし、かつての自分を思い出し、今は、その不自由さから離れて、割とのんきに楽しんでいる自分なんだよ、という解釈も成り立たないでしょうか。

 

あるいは、柳の強みは、たおやかでしなやかな強さともいえます。そんな強さを、自分も培っているのだろうか、と自問していたとしたら、これもまた現代に通じる心だという気がしてきます。

 

柳のような、しなやかさと強さを、心のなかにも持っていたい。

 

そんなふうに、この歌をみれば、小さな勇気と励ましが感じられるように思うのです。