独りで思い悩むとは本当のところどんな意味?万葉集の大伴家持の歌から考えた

「うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば」

 

・・・という、万葉集の歌を覚えていますか?

 

確か小学校で習ったように記憶しているのですが、中学校だったかもしれません。

 

この歌から、一人で悩むこころの真意について、考えてみました。

 

万葉集の編者と言われているのが、大伴家持(おおとものやかもち)です。

彼の代表作の一つであるこの歌は、学校の教科書に必ず載っているのではないでしょうか。

 

「うららかに日が照っているのどかな春の日に、ヒバリが鳴きながら空を上がっていき、なんとなくもの悲しい気持ちである。ひとりで思っていると

 

陽光きらめく、輝かしい春の一日に、ヒバリがさえずっている美しい情景と、一人思い悩む作者の心の対比が際立っていると、学校で習ったように思います。

 

子どもの私は、そんなものかなあ、と、作者の憂鬱については受け流しながらも、この歌に描かれた春の情景だけは、なんとなく心に残りました。

春の美しさは、子ども心にも知るところだったからです。

 

せっかく奈良に住んでいるのだからと、今回、万葉集を手に取ってみました。

 

こむずかしい内容の歌ではないので、素直にこのまま読めます。

 

ですが、調べてみると、当時の政界について、嘆いているのでは、という解釈もあるようでした。

 

家持は、大伴旅人の息子で、名門・大伴家の跡取り長男でした。

しかし、当時は藤原家の台頭で、大伴家の存在は傾いてきていたようです。

藤原氏出身の光明皇后(聖武天皇の妻)とその娘の孝謙天皇にあやかって、親戚である藤原仲麻呂が実権を握り、牛耳っている状態であり、家持は、それをこの歌で嘆いているのでは、という解釈でした。

 

「春日」が光明皇后で、「ひばり」が藤原仲麻呂のこと、という意味ですね。

 

つまり、光明皇后の世になって、仲麻呂が色々と口出ししていて、嘆かわしい、と言っているわけです。

 

この家持と言う人が気になったので、さらに調べてみました。

 

子どもの頃に、父親の大伴旅人が筑紫、つまり九州へ赴任するのについていき、母親を亡くして、その後、平城京へもどってからは父を亡くし、本人は少し出世しながらも、地方赴任を繰り返す、と、ざっというと転勤族の一生を送ったようでした。

 

30歳の頃、越中つまり富山に5年ほど赴任になりましたが、この歌は、そこから平城京に戻った直後に作られたようです。

 

さて、もう一つ、私の感じた解釈があります。

 

それは、春というのは、決して楽しいばかりではない、ということです。

 

あったかくなるのは嬉しい限りなのですが、春というのは、それまで隠れていたものが明らかになる、あまり嬉しくないこともあるのでは、と思うからです。

 

病いもその一つです。それに、あたたかくなると変質者もでますし、うつ病なんかも、春に発症しやすいと聞いたことがあります。

 

だから、この歌の前半部分は、春だから本当は楽しいはず、という前提はないものだと解釈して、対比はなく、むしろ呼応のようなスタイルなのでは、と思ったりします。

 

つまり、訳でいえば、「色々なものが見えたり聞こえてきたりする春というのは、なんとなく物憂い季節であることよ、ひとりでいると」というふうな訳もありなのでは、と思うのです。

 

長くなりましたが、この3つの解釈を、「一人で思い悩むこと」に焦点を当てた場合、こんなふうに考えられるのではないでしょうか。

 

①それは孤独である。

 

ここでは、ひとり物思いにふけって、なんとなく物悲しい気持ちになる、という一つ目の解釈になります。

春の日の楽しさと比べて、孤独の悲しさを嘆いている、あるいは、孤独な悩みということになります。

 

②それは本心である。

 

二つ目の解釈によれば、政治について嘆いていることになります。

つまり、ここでいうひとりとは、公け=外には出せない感情、本心ということになります。

 

③それは自説である。

 

私の自説、と言ってるのではないです。

 

作者の家持が、春という季節を物憂いものだと捉えている、つまり、ここでいう「ひとり」は、自分の考え、自説である、という意味になってきます。

 

まとめます。

 

「ひとりし思えば」の言葉の解釈は、「孤独の悲しさ」から、「本心を言えば」になり、

さらには「自説をとなえると」という3パターンの展開になることが可能なようにみえます。

 

ちなみに、「ひとりし」の「し」は強調の助詞だそうです。

 

もし、独りで思い悩むことがあるなら、このことを思い出してみてはいかがでしょうか。

 

悩むこと自体は、孤独で悲しいことかもしれません。

ですが、それは、自分の気持ちに素直になっている証拠でもあり、本心を見つめなおす機会にもなります。

さらに、自分の考えや自分なりの分析をする、といった形に変えていけると考えれば、思い悩み過ぎることはなくなるのでは、と考えるのは、楽天的すぎるでしょうか。。

 

いや、俄然、大伴家持という人の人間性に、興味津々になってきました。

 

家持の作品を、次も見て行きたいと思います。