Aに行くべきか、Bの道に進むべきか。
日常のささいなことから、人生の選択まで、二つ以上のうちの一つを選ばないといけないシーンに遭遇することがあります。
でも、どちらを選んでいいいのか分からない・・・
そう迷っていたときに、心に響いた言葉に、ここ奈良の地で出逢いました。
つい先日のことです。雨の日の買い物帰りに、垂仁天皇陵のすぐそばに広がる畑のなかで、アヤメが咲いているのを見つけました。
畑のすみっこで、ひとかたまりに咲いている紫の花は、アヤメかショウブか杜若のうちのどれにあたるのかそのときは分からなかったのですが、家に帰ってから調べてみて、おそらくアヤメだったのだろうと解りました。
その鮮やかな紫の花の色はもちろん、雨の中を、見事なほどまっすぐに背筋をのばしている姿にみとれていると、畑の中の道を、作業着を着た年配の男性が歩いてきました。
そのまま、通り過ぎていくのかと思ったら、同じようにアヤメに向かって視線をとめて、私に話しかけてきました。
「家で一生懸命に育てても上手くいかんのに、こんなところで、まあキレイに咲きよるわ。自然には勝てんね」
「ほんと、キレイですよね」
じっと見ている私が、園芸好きの人間に見えたのか、あるいは花の育成の難しさを知っていると思われたのでしょう。そのとき、私は、そのアヤメが畑できちんと世話されて咲いたものだと思っていました。そもそも、アヤメの花の育て方が難しいのかどうかも分からないので、そのことを告げようかと思っていたら、すぐに話は続きました。
「肥料やったり、なんやかやして手をかけても、よう育たん。なのに、こんなに、ほっといても(放っておいても)、まあ」
さきほどの話の繰り返しでしたが、彼もまた畑の中で足をとめて、アヤメの群れを見つめて、その美しさにみとれているるようです。
畑の持ち主でもなさそうだし、近くの田んぼで作業をした帰りなのでしょうか。
あるいは、別の仕事の休憩時間だとか、私と同じ、買い物帰りだったのかもしれません。
でも、足をとめたのは一瞬でした。すぐにまた歩き始めて、アヤメの横を通り、通り過ぎながら、
「ほんまに自然には勝てんな。・・・自然には勝てん、何事も」
そう言い残して、去っていきました。
もう少し会話をしたかったような、話が短くすんで少しホッとしたような、奈良の人はおしゃべりだと聞いていたけれど、あっさりとすんだのが物足りない気持ちになりました。そして、短い時間だっただけに、その最後に繰り返された言葉が、妙に心に残りました。
自然には勝てない、なにごとも。
そんなふうに思うことが、何か、最近あったのでしょうか。
もしそうなら、それは、私の心にも伝染してきたのです。
自然にまかせる、というと、周りの環境に流されるようなイメージがあったのですが、ここでいう自然は、自らの内部に持っている流れのような、力のようなものだと、このとき思いあたりました。
アヤメが人の手に依ったものかどうか、どちらでも同じだという気がしてきました。
つまり、自然の力とは、生命力のことだと思ったのです。
あるいは、そうならざるを得ない、業のようなもの。
誰のなかにもある、生まれてくるときにこう生きると決めていたこと、なのかもしれません。
そして、それに逆らったとしても、必ずそこへと戻ってくることを、アヤメの背筋が告げているように感じました。
決めるのではなく、気づくこと、そんな選択が、日常のなかでもできるなら、迷う機会はなくなっていくかもしれません。
選ぶのではなく、もうずっと知っていたことに気が付くことで、心はずっと軽くなりました。
もしかしたら、花は口実で、この言葉をかけるべき人間だと、私を見て判断してくれたのかもしれないです。
アヤメのおじさん、ありがとう。