年を取るってイヤなことですね。
でも、これって、本当でしょうか?
そう思い込んでいる、ということはないでしょうか。。
確かに、老いていくのは万人共通とはいえ、当人にとってはなかなか受け入れ難いことです。
でも、ちょっとした気の持ち方の違いで、ずいぶんラクな気分になることもあるはずです。
万葉集の歌に詠まれた、奈良時代から今へと続く、老いへの認識をお伝えしたいと思います。
「ほととぎす 鳴く羽触れにも 散りにけり 盛り過ぐらし 藤波の花」
これは、大伴家持が詠った、春の歌です。
家持の他の歌についてはこちら。
https://beauty-kireininaru4.com/alone-trouble/
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家持は、ホトトギスがお気に入りだったようで、歌にたくさん詠んでいます。
この歌では、「ほととぎすが、藤の枝にとまって羽を震わせただけでもう花びらが散っているほど、藤の花の盛りは過ぎたようだ」と、見ごろを過ぎた藤の花とあわせています。
鳥が体をふるわせて、花びらがはらはらと散る情景が目に浮かんでくる、美しい歌ですね。
「花の盛り」を「人生の盛り」に見立ててみると、花が散るさまを、老いとかけて詠んでいるかのようです。
老いについては、家持の歌ではないですが、次のような面白い歌も見つけました。
「冬過ぎて 春し来たれば 年月(としつき)は 新たなれども 人は古(ふ)りゆく」
「物皆は 新しき良し ただしくも 人は古(ふ)りにし 宜(よろ)しかるべし」
この二つは、対句とも、そうでないとも言われています。
どちらも作者不詳です。
まず、一つ目の歌の意味です。
冬が過ぎて、春が来ると、年月は新しくなるが、人は老けていくものだ、と歌っています。
これは諦念のようにもとれますし、だからこそ、老いを受け入れて前向きに生きようとしている決意を汲み取ることもできます。
この歌は、中国の古文献をよく知る作者によるものではないかと言われていて、大陸風の作風なのだそうです。
一方で、二つ目の歌の意味です。
物は皆、新しいのがよい、ただし、人は年を取ったほうが宜しかろう、と歌っていますね。
つまり、老いを肯定しているのです。
そもそも、老い、という言葉は使っていません。
よく、骨とう品や伝統など、「古いものはいい」と表現することがありますが、その感覚に近い「古い」という言葉のとらえかたになるのでしょうか。
大陸風な歌への返歌として、意識して作られたものなら、この歌には、日本人としての「年をとること」への肯定感を表している、と解釈することもできそうで、なんとも嬉しい気分になってきます。
そういえば、スペインの巨匠ピカソも、若い頃の自画像と、年をとってからの自画像では、ずいぶんと違う雰囲気を醸し出して描いていますよね。
若い頃のピカソ自画像は、顔の作りは若くても、老成しているような、苦悩がひそんでいるような、とても青春は良いものだと単純に言えない悲壮感が漂っています。
それが、年配になってからの自画像からは、作風の違いもさることながら、まるで青年のような若々しさとたくましさと軽やかさを感じさせてくれます。
ヘルマン・ヘッセが「成熟するほど若くなる」と言った言葉も思い出されます。
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日本人は、万葉集の時代に、すでにこの感覚を身につけていたのですね。
私たちはこのことを、誇りにしていいのではと思ったりします。
ところで、冒頭の家持のホトトギスと藤の花の歌ですが、すぐ後に続けて、彼はこんな歌も詠んでいます。
「ほととぎす 鳴き渡りぬと 告ぐれども 我聞き継がず 花は過ぎつつ」
初夏を告げるホトトギスが鳴いて過ぎたと、人は言うが、私はまだ聞いていない。藤の花は盛りを過ぎてゆくのに・・という意味ですね。
冒頭の歌と同じく、花の盛りに人生をみるとしたら、人生の盛りが過ぎつつあるのに、その盛りを告げる鳥の声さえ私はまだ聞いていない、と言う意味にもなるでしょう。
ですが、先の二つの歌の考え方を知ったあとに、この歌をみれば、また違った解釈ができる気がします。
人は、夏の盛りを告げる鳥の声を聞いたというけれど、私にはまだ聞こえてこない。人生の盛りを過ぎていく身だと思っていたけれど、ホトトギスの声を聞くのは、まだ、これからなのだ。
そんな超絶ポジティブシンキングは、老いという言葉そのものまでを、吹っ飛ばしてくれるのではないでしょうか。