奈良コトミのブログ

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海外経験後、奈良に移住して目覚めた、歴史と日常についてのあれこれ。

富士山の横顔とキョンキョン

横浜にきています。

友人の結婚式に出席するため、

新幹線に乗ってきました。

 

京都から新横浜まで約2時間、

お天気もよくて、

車窓の風景も美しく、

それをカメラで撮っている乗客もちらほら。

 

午後のすきま時間のせいか、

乗っている人は決して多くなかったのですが、

富士山が現れたときには、

シャッター音があちこちで、

派手に鳴り響きました。

 

もちろん京美も撮りました!

 

まだ、山頂は雪に覆われています。

周囲にも山はたくさんあるのですが、

雪をかぶっているのは、富士山だけ。

 

ほかの山と何が違うんだろう、

 

と考えて、

それは高さだと気づきます。

雪が解けないほどの冷気が保たれている高さ。

 

そして、

形もまた、ほかと違って圧倒的に美しいのです。

まるでアイドルです。

 

新幹線のなかで、ちょうど

小泉今日子さんの「小泉放談」(宝島社出版)を読んでいたので、

そんなふうに思いました。

 

この本は、

キョンキョンが50歳を迎えるのを機に、

50歳以上の女性たちと行った対談集。

対談相手の方々も有名人なので、

写真がなくても、どんなふうに喋っていたのか、

想像できるのが楽しいです。

 

同世代のキョンキョンは、京美にとってまさにアイドル。

女優や文筆家として活躍されている今でも、

アイドルだった頃の輝きは忘れることができません。

そして、

年齢を重ねるごとに、新しいチャレンジをして、

新しいキョンキョン像を、新しい女性像の一つとして

私たち一般人に提示してもらっているんですよね。

いつも勇気をもらえている気がします。

 

その一方で、

ただの一般人である自分は、

何をしていけばいいのだろう、と、ふっと思います。

 

ふつうに家庭をもって子育てしたり、

仕事をしたり、ということになるとは思うんですけど、

一般人の50代は、これからどうすればいいのか、

その先は?

特殊な環境でも、特別な才能をもっているわけでも、

奇抜な経験をしてきたわけでもなくて、

この先の人生を、大人として、次世代への橋渡しとして、

では何を橋渡しとかできるんだろう?

もし何も出来ないなら、

何もしなくてもいいのかもしれないけれど、

本当に、なんにもしなくていいのか??

 

そう考えてしまいました。

 

荷物をもって、新幹線を降り、

ブルーラインに乗り換えます。

 

ところで、横浜の地下鉄って、

ブルーラインとグリーンラインがあるんですね。

ブルーラインが地下鉄のことだとは分からなくて、

乗り換えにぐるぐるしてしまいました。。

 

さて、

無事にブルーラインという地下鉄に乗り込み、

暗い車窓と向き合いました。

でも、自分の顔は見たくなくて、

姿が映らない角度に立って、

見るとはなしに、広告やほかの乗客をみていました。

 

以前にも感じましたが、

東京の電車のなかって、しゃべっている人が少ないんですよね。

静かなんです。

一昨日だったか、

奈良の電車のなかで、女子大生らしき女の子がふたり、

一生懸命しゃべっているのが聞こえてきたのを思い出します。

就活か何かのアンケートのことを話していました。

 

あなたは生産的ですか、消費的ですか、ってきかれて、

めちゃめちゃ消費的なんだけど、

だからといって、生産的になろうなんてムリムリ、

なれっこないし、かんべんしてって感じ。

 

笑いながら、そんなことを言ってました。

 

生産的になりたくても、

消費にしか傾けられない自分。

それが一般人だということなら、

まさしく自分も消費的な生活しか送ってない。

 

そのときはそう感じました。

 

ですが、

横浜ブルーラインで乗客の昇降を見ているうちに、

気がついたのです。

 

自分では、そうだと気づいていなくても、

すごく小さなことだとしても、

ずっと続けてきたことや、体得してきたことが、

誰にでもひとつふたつは必ずあって、

それは他人から尚更みえやすいものであるかもしれなくて、

それを、やることができることなのかも。

 

例えば、

裁縫とか料理とか、書とか生け花なんかでもいいし、

そうではなくて、

もっと小さな、近所の人との付き合い方とか、

初めて会った人との挨拶のしかたとかでもいいし、

つまりコミュニケーション的なことでもいいし、

もっともっと個人的な、

大事に集めてきた宝物とか、好きでたまらない何かについてだとか、

そういうこと。

そんな自分のやってきたこと、やれてきたことに焦点をあててみたら、

なぜだか大丈夫だって気がしてきました。

 

卑下しそうになったら、視点をかえてみる。

 

他人をアイドルとあがめるだけでなくて、

自分のやってきたことのなかに、

富士山やほかの山々や、川や煙突をみつけてみる。

 

そうしたら、笑みがこぼれてきて、

明るい希望を感じられる自分を、

暗闇の向こうにともしびのように感じることができました。

 

レッツ、トライ!

 

あなたの心のなかにある、富士山は何ですか?

となりの英会話

つい最近のこと、

時間つぶしでカフェに入りました。

 

隣に座っていたのが、

若いイケメン白人男性と、

60代後半か70すぎくらいの日本人女性。

 

英会話レッスンのようです。

 

どんな勉強内容なのかな、と興味を持って、

聞こえてくる会話にきき耳をたてていたら、

男性は、日本語も流暢で、

ほとんどが日本語だったんです。

 

それでも、何かの拍子に、

彼が英語をちゃらっと話しては、

それはどういう意味ですか、とか、

それならこの言い方はどうですか、

というふうに、女性が質問しています。

 

彼女は、きれいに化粧をして、

鮮やかな色のセーターをきて、

アクセサリーもばっちり飾って、

とてもおしゃれにしていました。

 

男性の方は、まったくのビジネスライクな感じですが、

言葉はあくまで礼儀ただしくて、

彼女の向学心をのばすような誉め言葉や、

はげましの言葉をかけています。

 

そうすると、

女性はまたうれしそうに顔を輝かして、

笑い声をたてています。

 

 

そっか、そういう遊び方もあるのね、

と妙に納得しました。

 

別に、英語の「勉強」だけが、

英会話レッスンの目的じゃなくてもいいんですよね。

 

世代の異なる外国人と、

それも映画にでてきそうな男性と、

日本語を交えてレッスンする、

なんて楽しい時間なのでしょう。

 

そのうえ、海外旅行のときに使えそうなフレーズを

いくつか覚えられるなら、

レッスン代を払う価値は十分ありそうです。

 

 

ところで、京美が英会話をやろうと思ったのは、

40歳を過ぎてからでした。

40半ばでイギリスの語学学校に行ったりもしました。

 

ずいぶんと遅いスタートでしたが、

それが京美のやりたいと思った時期だったし、

脳は筋肉だから、年齢が高くても、

鍛え方次第では今からでも遅くないと信じていました。

 

手始めに、

ラジオ講座の英語を録音して何度も聴いたり、

ディクテーションをやったり、

そうそう、カフェレッスンもやっていました。

 

京美の場合、先生は日本人女性でした。

アメリカに10年以上住んでいて、

ネイティブなみに話せる方でした。

 

中学高校大学と、

英語の勉強は一通りやってきたものの、

ほとんど話すことができなかった京美なので、

日本語で質問したり、答えたりしてもらえる、

日本人の先生は貴重でした。

 

その頃、

まず頭でナットクしないと、

話すことができなかったので、

性格的にも、日本人の先生なら安心でした。

 

日本語と英語がイコールでないことも、
まだ、本当には分かっていなかったので、
日本語で聞かずには、先へすすめなかったんですね。

これは遠回りの方法ですが、

初級レッスンとしては、悪くなかったと思います。

 

1対1で教えてもらえるのも利点でした。

ほかの生徒の質問ばかりを聞くこともなく、

自分の質問を遠慮なくたずねられる環境は、

楽しかったし、モチベーションも維持できました。

 

カフェレッスンは、月に3回くらいを、

一年半ほど続けたでしょうか。

さらに、

いくつになってからでも、

語学の勉強はやってやれないことはないと知ったのは、

ニュージーランドに行く飛行機の中です。

 

となりの席に座っていたのが、

80近い日本人女性でした。

彼女は、70過ぎてからの英語チャレンジで、

年に一度、1、2か月をニュージーの語学学校で過ごすそうです。

10年経った今では、学校ではなく、

お友達のお家に滞在しているそうで、

 

日本人の友達より、ニュージーの友達の方が多いのよ、

 

そう話されていた笑顔が忘れられません。

いつからでも、どこからでも、

やろうと思えばできるんですね!!

西大寺の十一面観音を見上げたら、こんなことを言われた

奈良西大寺の続きです。

https://beauty-kireininaru4.com/nara-life-2/

https://beauty-kireininaru4.com/nara-life-saidaiji-temple/

 

入口に一番近いところにあるのが、四王堂というお堂です。

ここに入ると、中央に祀られているのが、

十一面観音、平安時代末期の像です。

 

見上げた姿の大きさに、

びっくりしたぁ、と声がでました。

 

長谷観音(はせかんのん)です。

 

すっくと立ちあがった巨大神。

見下ろすまなざしを、まじまじと見返しました。

 

青いベールのような薄い膜が両脇にかかっていて、

荘厳な雰囲気を醸し出しています。

 

そこから、

見ているのか見ていないのかわからないような

薄目をあけて、

 

いまは何も言わんとくけどな。

おのれでよく考えとくんやで。

 

・・・そんなふうに言われたような気になりました。

 

心をあらわれるとか、

うたれるとか、感動するとかというよりも、

ただただ圧倒されたのは、

その大きさのせいだったのかもしれません。

 

全長5メートル弱の、484.4センチ、

本家である長谷寺(はせでら)の長谷観音が、

10メートルほどのようなので、

その半分の大きさということになりますが、

それでも、十二分に大きな観音さまです。

 

ですが、

大きさ以上に、その雰囲気と表情といでたちの感じが、

なんとも独特でした。

夢のなかで、現実ならありえないような何かに出合ったとき、

「そうはいってもこれは夢だから」と、

頭の片隅で思っているような感覚ってありますよね。

 

その逆というのでしょうか、

これは現実なんだけど、

実は非現実のどこかとつながっているのかもしれないな、

と思えるような感覚。

 

ちょっとゾクゾクします。

 

自分よりはるかに大きなものをみたとき、

恐怖や畏敬の念を覚えるものですが、

 

なんでしょう、これは。

 

たとえば、

「ああ、ありがたや、ありがたや・・」

あるいは、

「よくもまあこんなでかいもんを作ったわね」

なんて思ったとしても、

それは、理性であって、一瞬あとから思うことです。

 

まさにその一瞬の最中というのは、

ただただ驚きと衝撃と、圧倒される感覚で、

自分が空白になる瞬間。

理性も思考も飛ばされるような感じ。

 

そして意表を突かれたあとに感じるのは、

もう以前の自分には戻れない、

新しい自分との遭遇、新たな時代への突入なのかもしれません。

 

面白いです、西大寺。

出合いって、やっぱこうでなきゃ、って思います。

 

 

さて、形式的なものをみていくと、

これは長谷式観音といわれるものなんですね。

地蔵菩薩の面をもっているのが、

ほかの観音さまと違っている点です。

 

左手に観音さんらしく水瓶を、

右手には、お地蔵さんのように杖を持っているのが特徴です。

錫杖(しゃくじょう)という杖です。

 

この観音さまは、頭以外の部分の破損がかなりひどく、

西大寺に移されてから何度か修復されたようです。

再興した叡尊さまは、

この観音さまのお顔の表情に、何を感じられたのでしょうか。

 

 

ところで、

こちらの四王堂には、四天王さんも祀られています。

それぞれ「邪鬼」を踏みつけていて、

その4つの邪鬼のうち1つだけが、

創建された奈良時代のものだそうです。

この邪鬼を目的に、四王堂に入られる方が多いようですが、

京美は、十一面観音さまがイチオシです。

 

西大寺の入館料は、

この四王堂ほか、本堂、愛染堂、聚宝館とあり、

それぞれ単体で払うこともできますし、

4つともに入れる共通チケットもありますよ。