奈良コトミのブログ

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海外経験後、奈良に移住して目覚めた、歴史と日常についてのあれこれ。

奈良検定によく出る喜光寺は、室町と平成の建物が並ぶ不思議ワールド

奈良まほろばソムリエ検定なるものがあると、

引っ越しを決めてすぐに知りました。

 

観光の知識と伝達力をもつ人材育成が目的のこの検定、

奈良まほろばソムリエを頂点に、奈良通1級、2級とあって、

2級から順に取っていく必要があるようです。

 

歴史は好きな方だし、

せっかく奈良に住むのだから、

お寺や歴代天皇さまの名前とか、

ちょっと勉強してみたいかな、と、

軽い気持ちでトライすることに。

 

ちょうど願書の締め切り間近だったので、

あわてて応募して、

問題集をネットで見つけたものの、

マジメに勉強しだしたのはクリスマスのころ。

 

1月7日の試験日まで、あせりまくって、

過去問を解きました。。

 

おそらく、

明日か明後日には、結果発表の通知がくるはずです。

ドキドキ・・・でも、

 

7割以上の正解で合格になるらしいので、

自己採点では、大丈夫かな。

 

大幅なマークシート転記ミスをしてない限り・・・

 

それはさておき、

奈良時代の歴史や、奈良の名所、神社仏閣、特産物など、

学ぶことができてよかったです!!

 

 

さて、

この奈良通2級の過去問にもよく出てくる、

「喜光寺(きこうじ)」というお寺が、国道沿いに建っています。

 

かの東大寺が建立されるまえに、

大仏殿のひな型として建てられたという伝承があり、

そこから「試みの大仏殿」とよばれている、

というのが、奈良通2級での出題内容です。

 

大仏建立に尽力した僧、

行基さまが創建したといわれています。

 

この喜光寺、我が家から自転車で、

買い物に出るときのルートにあるのですが、

そう、菅原神社のすぐ近くでもあります。

 

朱色と白の、新しい感じの南大門が、

だだっぴろいような空き地の中で、

でん、と、そびえているのが、

びゅんびゅん車の通る道路と、

どこかそぐわないような気もしていました。

 

さらに、

南大門の奥には、これは年季の入った、

古い茶白の本堂がそびえています。

この、新旧のコントラストが、

不思議な雰囲気を醸し出しているんです。

 

一度、南大門の前で自転車をとめてみると、

ちょうど秘仏「宇賀神」を公開していました!

 

お正月からしばらくの間と、7月あたり限定の公開のようです。

 

せっかくなので、奈良検定の試験が終わってから、

ゆっくり拝観させていただきました。

 

どうやら、奥の本堂は室町時代に再建されたもの、

南大門は平成に建てられたものということでした。

 

平成と室町時代。

そう知って、比較するように見てみると、

感慨深いというか、

タイムワープするような、

楽しい気分にもなってきました。

 

なにより、この日は参拝人がほとんどいなくて、

ひっそりとした境内でした。

国道の車の音も聞こえてこないので、

ときの流れがとまったような、

静謐な空気がゆるゆると漂いながら、

無関心に放っておいてもらえる自由さをまとって、

とても心地よい空間でもありました。

 

本堂の中に入ると、

ご本尊の阿弥陀如来が、勢至菩薩と観音菩薩を従えて祀られています。

おだやかな、やさしいご表情でした。

 

そこから出て、さらに奥の弁天堂に、

秘仏の宇賀神像がありました。

 

小さな池の真ん中まで、小さな橋を渡って、

お堂の前に立ちます。

 

なかには、

江戸時代の宇賀弁天像と、

秘仏の宇賀神像が、静かな境内で、

これまたひっそりと祀られていました。

 

 

宇賀神とは、弁天さまの頭上にとぐろを巻いている蛇で、

翁の顔をもつ神様だそうです。

 

喜光寺の宇賀神像は、

とぐろをまいた蛇のなかに、翁の顔が浮かび上がる、

小さな白いヘビ単体の、神さまでした。

 

奈良時代に興福寺から譲りうけたものと言われているようです。

ご利益、あるといいな。

 

境内には、行基像の安置されたお堂もあり、

夏には池の睡蓮と、

たくさん並んだ鉢植えの蓮の花も咲くそうです。

 

よかったら、ぜひ見にきてください!

なんで離婚したの?と聞かれて、答えに詰まったお食事会

3年住んだニュージーランから帰国して、

しばらくたった後に、

学生時代の友人たちと会いました。

 

ごく少人数でランチをして、

お互いの近況報告をして。

仕事の愚痴、家族のことなどひとしきり話して、

もうそろそろお開きの時間かな、

というころに、

仲間の一人が、バクダン発言をしました。

 

末の子の手が離れたら、離婚したい。

 

数年後に実行するために、

プロパーでや雇ってくれる仕事も見つけたと。

本気のようでした。

 

それまで、そんな話を彼女から聞いたことがなかったので、
そりゃ、びっくりしましたよ。。

 

同時に、

えええ、このランチ会は、

私のお帰りなさい会ではなかったの??

 

と、おめでたいことを考えていたのを発見しました。

そうか、

そっちの話が聞きたかったのか、と、

妙に納得した、京美です^^

 

ただ、

自分が離婚経験者だということは棚上げして、

親しい友人の口から聞くのは、

すごく驚くというか、妙な気持でした。

 

以前、

別の旧友がやはり離婚について悩んでいたとき、

話をききながらも、

離婚なんていつでもできるんだから、

今は出来ることをやっていけばいいのでは?

なんて、

ありきたりの言葉しかかけることができませんでした。

 

京美の経験からいえば、

リコンは、親しい人には出来る限りしてほしくない。

 

しんどいし、つらいし、めんどうだから。

 

金銭面とメンタル面と社会対応に対する

何かしらのサポートが必要になることも多いし。

 

とはいっても、

自分が離婚したい、といったとき、

やめたほうがいいのでは、と言われるのは、

気持ちを分かってもらえない、

さらには受け入れてもらえないと、

辛く感じることも多々あったので、

ホント、

友人への対処は、人それぞれで、

感じ方も行動も千差万別、

正解のない迷宮に入ることが多いです。

 

 

件の彼女は、状況を説明したあと、

それまでそらし気味だった視線を、

まっすぐにこちらに向けました。

 

 

京美はなんで離婚したの??

 

たずねる方も必死だったと思います。

 

ですが、

この思いがけない問いに、

京美も、ううっとうなるようにして、

答えに詰まってしまいました。

 

 

離婚したのは、10年も前のことです。

さらに、

再婚したての京美としては、

話したいのは、どちらかといえば、

現在のことだという状況でした。

 

そういえば、

この日あった友人たちには、

離婚の理由を詳しく話す機会が今までありませんでした。

当時、

京美はマスコミ関係の仕事環境にいたので、

「名前がかわりました。旧姓にもどりました」

と、名刺を配って歩いても、周囲は、

 

あ、そ。

 

ぐらいの反応で、

リコン環境?としては、かなり恵まれた方でした。

さばけているというか、

別に珍しくもないことのようで、

常識やマナーというだけではなく、

なんで??とは誰も聞いてこず、

むしろ、

いたわりや思いやりの心をいただけたと思っています。

 

さらに、

私も考えているの。。なんて相談を受けるようになったり、

家族について深く話せる友人ができたりと、

社会面でつらいおもいをすることはありませんでした。

 

もっといえば、

何人かの周囲の同僚や友人に、

リコン理由について、正確に話そうとすればするほど、

くどくど長くなって、どんどん不正解に近づいていくようで、

あるときから、それについて話すことは諦めるようにもなりました。

いい意味で、です。

 

そもそも、結婚とちがって、

リコンの原因や理由なんて、人ぞれぞれ。

京美の場合、周囲がわかりやすい言葉を選ぶなら、

金銭感覚のズレ、セックスレス、親の問題、

親戚の問題、介護問題、

将来のビジョンの違い、などということになるでしょうか。

 

でも、それって、わかるようでわからないですよね。

具体的な話をするなら、

11年間の結婚生活の始めから、逐一説明しないと、

本当には理解してもらえないような気もします。

いや、

全ストーリーを聞いてもらっても、難しいかも。。

 

ほかのことも同じでしょうが、

要は、やるかやらないか、だけの、

行動が主軸の問題です。

 

結婚の場合と、そこが違う気もします。

相手があることというより、

自分がどうするか、その一点が重くなってくるから。

 

 

さて、

返事に窮しながら、

それは、正確に、誠実に答えようとするなら、

とても一言ではすませられない、という

個人的な事情を抱えながら発した言葉は、

 

・・・それは、理由は一つだけじゃないんだけど。

 

という、

これまたありふれたフレーズになりました。

 

だいたい、10年も昔のことなので、

ほとんど忘れてしまっていたのも本当です。

そして、記憶をほじくりだすには、

あまり楽しい思い出でもありません。

 

それを察してくれたのか、

彼女はそれ以上は聞こうとせず、

別の友人も、

 

理由は、一つこれ、って人もいるし、

いくつも重なって、という人もいるし、ね。

 

とフォローしてくれました。

ありがとう!!

 

 

ところで、京美は、ニュージーランドに行く前に、

イギリスへ半年ほど語学留学に行っています。

それはそれは楽しい学生生活でしたが、

そこで出会ったヨーロッパを中心とした外国人の友達に、

同じ質問をされたときは、

つたない英語で伝えるために、

できるだけシンプルに話そうと、

こんな答えをすることに決めていました。

 

We had different time to have kids, and

he loves his mother rather than me.

 

英語って、こういうとき本当に便利だと思いました。

シンプルだけど、納得してもらえましたし。

 

とはいえ、やはり尋ねられたのは、

親しくなったひとりふたり、さんにんくらいからのことでした。

 

長くなったので、続きはまたの機会にしますね。

羽生結弦選手の衣装から思い出した、映画「陰陽師」の丑の刻参り

平昌オリンピック、盛り上がっていますね。

 

男子フィギュアスケートでは、

羽生結弦選手が金、宇野昌磨選手が銀と、日本すごいです。

もう、興奮しました!

 

そして、羽生選手の和テイストな衣装、

奈良時代か平安時代のコスチュームなんだろうかと思っていたら、

これは平安時代の「狩衣」からきているようです。

 

映画「陰陽師」の安倍晴明が着ている衣装ですね。

 

曲名「SEIMEI」も、映画「陰陽師」からアレンジされていること、

さらに振り付けも日本の伝統芸能を意識して作られていること、

はずかしながら、京美は今日まで知りませんでした。。

 

技術の高さはもとより、

繊細な表現力とダイナミックな迫力が、まさに圧巻。

 

拍手とともに、大向こうの声がけもしたくなりました。

 

続いて、テレビでは、

この映画「陰陽師」が放映されていました。

もう17年も前のものなんですね。

キョンキョンも出ていたこの映画、

ついこの間のことのような気がして、驚きです。

 

羽生選手にインスピレーションをもたらしたという作品を、

久しぶりに、京美も楽しませていただきました。

 

映画の舞台は、安遷都から150年たった京の都。

早良親王の怨霊を利用した陰陽師の争いに、

安倍晴明と殿上人の源博雅も巻き込まれていきます。

 

この物語のなかで、

嫉妬に悩まされる姫君が、生霊となって現れるシーンがあり、

このときの衣装が、かの「丑の刻参り」のものだったのだと、

あらためて気づきました。

 

丑の刻参り。

頭にろうそくを立てて、白装束を着て、

夜中過ぎに神社に詣でて、わら人形に釘を打ちつける、

という呪いの儀式として有名です。

 

鉄の輪を頭にまいて、その上にろうそくを立てる。

「鉄輪」というタイトルで、お能の謡曲にもなっていますね。

 

ちなみに、これは「かなわ」と読むようです。

金輪、からきたのでしょうか??

 

もっとずっと若いころのことですが、

この「丑の刻まいり」と、「お百度参り」というのを、

京美は、同じ意味だと思っていました・・・

ホントおはずかしい。

 

どこかの神社で、お百度と書かれた石をみて、

 

えっ、ここで丑の刻参りをするの??!!

 

と、ひとり勝手に恐れおののいたこともあります。。

 

お百度参りというのは、

念や願いをかなえるために、

百回参拝することをいうと思います。

それは、

もちろん呪いではありません。。

 

映画のなかでは、赤い装束を着ていましたが、

これは時代によるものなのでしょう。

奈良時代から、

丑の刻参りに似た呪詛の形はあったと言われているようです。

 

物語の姫君は、目的を果たせず、

さらにナマナリなる異形の鬼に化してしまいます。

目的を果たせなかったのは、

安倍晴明の技によるものなのでしょうが、

荒れ狂った姫気味の魂をしずめて、

最後に救ってくれたのは、

源博雅の純粋な心でした。

 

アスリートの演技も、技の力はもちろん、

それを超えた何かに、感動したように思います。

 

さて、お百度参りといえば、

京美の家の近くに、菅原神社があります。

菅原神社といえば、天神さん、あるいは天満宮ですね。

とくに、ここは菅原道真が生まれた地ということで、

日本最古の天満宮の一つだそうです。

 

自転車で買い物に行くときの通り道なので、

ときどき寄ることがあります。

ついこの間、ここでお百度参りをする女性をみかけました。

 

着ていたものは、、

 

ピンクのジャンパー。白装束ではありません。

 

年齢は、30半ばすぎくらい、

手にお札のような、竹の皮のような、茶色い紙のようなものを持っていて、

お参りするごとに、その札を置くのでしょうか。

数を正確にかぞえるためかもしれません。

 

頬を赤くそめて、

その女性は一心に、走るように、

境内入口から拝殿までを行き来していました。

 

何のお願いごとをされているのか。。

ちょっと気になります。

時期的にみて、お子さんの受験祈願でしょうか。

 

学問の神様、菅原公、天満宮といえば、

受験の神様としても名高いので、

希望校合格をお願いされていたのかもしれません。

 

春には朗報が届くとよいですね!!