大きな不安感から体も疲れ果ててしまった体験談

今回は、不安感に飲まれそうになってしまった私自身の体験談です。

 

3年のニュージーランド生活から帰国して、新たな場所で再出発をしようというとき、突然それはやってきました。

 

画像のしおれた花のように、ぐったりしていましたね・・・

 

あの強烈な不安感は何だったのか。

 

半年近く前の心の状態を振り返ることで、不安の一つの乗り越え方をお伝えしたいと思います。

 

日本で新しく住むかもしれない場所へ、一人で下見に出かけたときに、それは起こりました。

突然、不安な気持ちが大きくなって、電車に乗っていられなくなったのです。

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いまだかつて経験したことのない、強烈な不安感でした。

 

もしかしたら、これが噂に聞く、パニック障害というものなのか?という考えが浮かんだりもしましたが、呼吸が上がる感じでもなく、道を歩くことはできたのです。

 

どちらかというと、体を動かす方がラクな気もしました。

心か精神か、それとも頭なのか分かりませんが、そのしんどさに比べたら、体の疲れの方がまぎれる、という感じでした。

 

途中下車を繰り返して、見知った地元近くまで戻ってくると、何もなかったように不安感はおさまりました。

最寄り駅で降りて、スーパーで買い物をして帰ったのを覚えています。

 

ですが、一人になると、また何かやってきそうでした。

 

それで、身内の家に厄介になることにして、4日ほど、世話してもらいました。

 

ご飯を作ってもらって、食べて、寝て、起きて、でも食欲はあまりなかったです。

ときどき苦しくて、部屋のなかをウロウロと歩きました。

歩いてないとどうにかなりそうでした。

 

帰国したてのその頃は、ニュージーランドで出来たパートナーの彼とは、色々な準備もあって離れて暮らしていました。

夜になると、少しだけ、彼と電話で話をすると、気持ちもおさまりました。

そのときだけは楽しい気持ちになれました。

 

そして4日が過ぎた頃、気が付きました。

このままではダメだ。自分でなんとかするしかない、と。

 

漠然とした感覚で、ここにずっとはいられないし、いたくない。

迷惑かけ続けるのも嫌だし、好きなものを自分で作って食べたい、という気持ちにもなりました。

 

食に対する欲望は、人一倍大きい私ですが、このときはそれが幸いしたのでしょうか。

 

今振り返って思うのは、一番は、疲れだったと思います。

 

ニュージーランドの生活は、楽しかったけれど、大変なこともたくさんありました。

あたりまえですが、異国で暮らすのは、十代二十代の頃とちがって、慣れるまでに時間がかかります。

食べ物の違いもありますし、言葉に対してのストレスも知らず持っていたでしょう。

ダニにかまれて、その薬疹のような症状が出たのも大きかったかもしれません。

 

だから、不安感の分析の前に、必要なことは休息でした。

 

そして、そこまで大きな不安感を持ってしまった原因を、いまになって探っていくと、

前回お伝えした、「自分の価値」と「自分の存在」について、両方の不安を持っていたのではと思うのです。

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さらに、生活の変化を目前にして、「この先も一人立ちできるのか」、「自分らしく生きていけるのか」という二つの想いがあって、この二つが自分のなかで矛盾するのではないかと葛藤していたように思います。

 

ニュージーランドに行くときは、新天地へ乗り込む、という意気込みがありました。

 

帰国は、自分にとって、負けのようでもあり、それでも彼との二人の日本の生活は楽しみでもあり、だけど、今までの人生と、これからの人生がリンクするのか。

何か大きな間違いをしているのではないか。

それも過去と同じ間違いで、同じことの繰り返しなのではないか。

 

カンタンにいうと、自分は幸せなのか、幸せになれるのか、という問いかけにイエスといえない自分がいたということです。

 

でも、ホントのところ、そんなこと誰にも分らないです。未来のことですから。

 

それに、現在にとどまっているようで、私は、過去にとらわれていました。

 

未来は、自分がつくるしかない、変化は当然、変化を恐れているようでは生きていけない。誰もが知っている、当たり前のことですけれど、このときの私には啓示のように思えました。

 

不安に立ち向かうのは本当に怖いことです。

そんなことなら、今のままでいる方がずっとラクかもしれません。

 

それでも、心の奥の奥の、核である自分にとって、幸せであること、自分らしくあること、それを知っているのが核の自分だと思うのですが、その自分が前を向かない限り、人生は自分のものにはならないのだと、やっと、気が付いたのかもしれません。

 

世話してくれた家族や、心の支えになってくれたパートナー、見守ってくれた友人には感謝の言葉しかありません。

 

それでも、最後の最後のところで、踏ん張れるのは、踏ん張ると決められるのは、自分しかないとも思うのです。

舵をとるのは自分。

誰も、自分のかわりにやってはくれないでしょう。やってもらうものなどではないのです。

 

・・・そして、やっぱり休息は大事ですね。本当に当たり前すぎて、お恥ずかしい限りです。

 

ちなみに、下見に行きかけた場所に住むことはなく、今は奈良に来て本当に良かったと思っています。

画像のお花、近所のお店の開店祝いでもらってきたときは、しおれかけてましたが、

水をあげて一晩たったら、すっかり元気になりました。

植物の生命力はスゴイですね。