奈良コトミのブログ

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海外経験後、奈良に移住して目覚めた、歴史と日常についてのあれこれ。

グレーテルは自分だと震撼した日、その2

今は昔、

これもまたずいぶんと前のこと、

前回の続きです。

https://beauty-kireininaru4.com/gretel-my-history/

 

義母が倒れました。

その頃、京美と前夫はほとんど会話をせず、

家ではただご飯をたべて寝る、という毎日でした。

 

近くに住む義母は、

夜遅くに電話をしてきて、調子が悪い、

病院へ連れていってほしいと言いました。

 

前夫はでかけていき、夜が明けても戻らず、

京美はそのまま仕事に行きました。

午後おそくになって、連絡があり、脳溢血だったとのこと。

ただ、病院に行った直後にはすぐ分からず、

諸々の検査をしたあとにやっと診断がくだり、処置されたとのことでした。

 

上司の配慮もあり、

早退して病院へ向かった京美は、

前夫とバトンタッチをして、医師の話をきき、

病室で、義母の左足を4時間さすり続けました。

左半身に後遺症が残るとのことで、

すぐにマッサージ等して、できるだけ筋肉に軽い刺激を与えた方がいいと、

医師に言われたからです。

 

幸い、命には別条はないとのこと。

ただ左半身は問題が残り、リハビリ生活が始まりました。

これには、さすがに夫婦で力を合わせる必要があり、

義母に関する事柄について、会話をするようになりました。

 

けれど、

ほどなくして義母は病院を変わらねばならなくなりました。

その転院先をどうするかについて、

義兄もやってきましたが、

つまるところ彼は具体的な役にはたたず、

介護の心得なる本を3冊送ってよこしたりしました。

義母と、前夫と、京美の三人それぞれが同じ本を持っていた方がいいと。

なし崩し的に、重責を負わされそうに感じて、

このままでは、介護の末に自身も病で早逝した、

実母の二の舞になるのではと思わずにはいられませんでした。

 

そういえば、後になって、

前述の女性上司が、この義兄のことを、

 

ずっるーい!!

 

と笑って評しました。

きびしくて、こわい上司でしたが、

自身も介護経験があったからの台詞だったのでしょう、

正直、気持ちがスッとしました。

 

とはいえ、

問題は、義兄ではなく前夫です。

義母のことが起こる前から、すでに夫婦関係は壊れていました。

もし、この先も夫婦でいるのなら、

子どもを作りたい、その方が、義母の生きる希望にもなるのではと、

提案しました。

京美の提案に、前夫は、

それはできない。これから先は、義母の世話を一番にする生活になるから、

と答えました。

 

今ふりかえると、

どこかこっけいに思える会話ですが、

当時は真剣でした。

義母を自分の子供のかわりにすることはできない、

それを強要してくる前夫とその親戚も信用できない、

そんな気持ちでした。

ですが、

その状況は、結婚当初からひかれていたレールのようでした。

やっと、そこから外れることを決意できたのです。

結婚して10年が過ぎていました。

 

遅すぎる決断でした。

反面、それだけの時間をかけたから、

離婚した後に未練を感じたり、後悔することはありませんでした。

 

さて、

義母のリハビリを手伝っていたころに気づいたことがあります。

ひとは、例えすりきれたボロぞうきんのようになっても、

生きていたいものなんだ、ということです。

同時に、

「ヘンゼルとグレーテル」のお菓子の家で、

食べられるために太らされつづけたヘンゼルのことと、

彼の世話や家事をする妹のグレーテルが、

兄を助けるために最後にとった行動を、思い出したのです。

 

いつまでたっても太らないヘンゼルに、しびれを切らし、

今こそ彼を食べる!と、かまどに火をくべた魔女は、

グレーテルに火加減をたずねます。

グレーテルは、よくわからないと答えて、

魔女自身に火を見るよう促しました。

そして、かまどをのぞいた魔女の背を、

火の中へと、思い切り突き飛ばしたのです。

 

魔女は母親の姿だとも思いました。

わが子を食らおうとする母と、その母を火にくべる娘。

まるで死闘です。

 

童話は比喩に過ぎませんが、

現実はもっと過酷です。

 

母は、息子を手元に戻すために病になったのではないか。

もしそうならば、

自分はいつかグレーテルになるだろう、と。

いや、すでにグレーテルなりつつあると自覚したのです。

 

気づいてしまったあとは、もう元にはもどれません。

そのうえ、京美にとって、

もはや魔女を殺めてまで手にしたい、ヘンゼルでもありませんでした。

 

もうひとついえば、

グレーテルだけでなく、

魔女もヘンゼルも、勝手な義兄でさえも、

すべては自分の中にいたもう一人の自分でした。

それに気づくのはずっとずっと後のことですが、

 

京美グレーテルは、ヘンゼルを伴わず、

お菓子の家をでました。

39歳のときです。

やっと、大人になれたかもしれない、でも、

本当の大人になるには、

まだまだ遠い道のりを行かなくてはなりませんでした。

結婚式は誰のもの?

横浜で、友人の結婚式に行ってきました。

https://beauty-kireininaru4.com/art-life-fuji-san-kyonkyon/

https://beauty-kireininaru4.com/yokohama-toushoumen-chineserestaurant/

ニュージーランドで知り合った、

一回り半も年下の友なので、

気分はどちらかというと、

友人というより、姪っ子のお式というところでしょうか。

ちょうど桃の節句でもありました。

 

それにしても、

教会スタイルの結婚式は、感動的でした、

扉が開いて、

純白のウエディングドレスに包まれた新婦の姿は、

神々しいほどに輝いて、

親族でもないのにウルウルしてしまいます。

 

カタコト日本語の神父さんの言葉も、

ときに笑いをさそう楽しいものでした。

 

新郎新婦は、今もニュージーランドに住んでいるので、

式を日本であげるのは大変だったと思います。

準備もそうだし、帰国費用もかかるし、

それでも、式をあげるのは、

やっぱり女性の夢だからかなと思っていました。

 

心のこもった、あったかい披露宴でした。

お色直しもなく、スピーチもひとつもなく、

ただ順番に、新郎新婦二人で各テーブルをまわって、

お客とおしゃべりしていく、という進行でした。

二人の意向だったんだと思います。

 

両親への手紙を読み上げる、というのもなかったです。

かわりに、

途中、新郎の両親に、

ケーキのファーストバイトをお手本でしてもらう演出が、

なかなか盛り上がったのと、

新婦の100歳になる大叔母さまへ、

感謝の言葉を贈るシーンがあって、とても感動しました。

 

耳の遠いであろう大叔母さまに、

画用紙に書かれた文字を見せながら、

新婦がメッセージを読み上げます。

100歳という長寿のお姿と、

新婦の感謝と尊敬の心が伝わってきて、

あたたかいものが胸にせまりました。

 

子どものいない京美ですが、

そうか、

もし姪っ子に子どもができたら、

その子の結婚式には大伯母として出席できるなーと、

先に生き抜く希望をひそかに見つけましたよ。

 

披露宴では、

あくまで招待客に楽しんでもらうことを第一に考えていたようで、

これまではもちろん、

これからもお付き合いをしていきたいから、という

二人の気持ちが素直に感じられて、ありがたかったです。

 

親族や友人たちへのお披露目だから、

自分たちのためではなくて、

あくまで来てくれた人のため、

でも、

それはつまるところ、

親への感謝のあらわれにつながるんだな、と

いまさらながら気づかせてもらった時間でした。

 

ずいぶん前の話になりますが、

映画監督の河瀨直美さんと、お話したことがあります。

まだどちらも20代半ばすぎ、

河瀨さんは、初めての長編作を作られた頃のことでしたが、

上映会のアンケートを書いたお客全員に、

感謝のハガキを送ってきてくださったのです。

 

調子にのって、それにまたお返事のお手紙を送ると、

すぐにまたお返事してくださったりして、

しばらくお手紙でのお付き合いがありました。

 

表現とはうんぬん、なんて、

青くさいことを書いていた京美に、

河瀨さんはあるときこんな一節をくれました。

 

おはようの挨拶も、いってきますの言葉も、

みんなみんな表現だから。

 

25年近くたって、やっとその意味を実感できてきました。

ていねいに生きる。

それが自分に対して、周囲に対しての表現であるのかもしれません。

そして、

なぜ自分自身が、いつまでたっても独りぼっち感から抜けられないのか、

それは、

表現は孤で行うものだとしても、

孤のままにとどまるものではないから、

そこの意識をほんの少し変えてみるだけでも、

明日から見える風景は変わるかもしれない。

 

変わることができたら、

また次へ進んでいけると、思いあたりました。

 

結婚式とその披露宴、という表現。

これも立派なアートだったんですね。

苦しくても真摯に向き合えば、

得るものも大きくて、喜びも楽しみも手に入る。

人生はアートで、まだまだこれから彩っていくものだと、

教えてもらった雛祭りでした。

横浜で本場さながらの刀削麺を食す

横浜にいます。

 

夕食に何をたべようかと思っていたら、

履いていた草履の裏皮がはがれてしまいました。

 

友人の結婚式のために和装で出かけていたんです。

ただし、小物や下着類の荷物を減らすため、

移動用の小紋を着ていました。

 

ホテルの部屋に向かう廊下で、

じゅうたんの上を歩いているときに、

 

べろん、

 

と剥がれて、つまづきかけました。

 

あわててコンビニにいき、

瞬間接着剤を購入、すぐに使って、

コンビニの飲食コーナーにある椅子に座って、

待つこと15分。

なんとか、ちゃんと歩けるようになりました。

接着剤、コンビニ、ありがとう!!

 

 

さて、

近くのレストランを検索して、

いくつか候補のお店の前を通ったりして、

着物のおひとりさまでも入れそうかチェックしつつ、

気になったのは、

 

刀削麺

 

という看板の中華料理やさん。

ニュージーランド、オークランドにいるとき、

中華料理店も色々と行きましたが、

https://beauty-kireininaru4.com/newzealand-life-multicultural-restaurant/

麺専門店というのもあって、

この刀削麺を食べたことを思い出したのです。

 

 

とうしょうめん、と読みます。

西安の料理だとか、山西省発祥とか、

四川料理とか、色々いわれているようですが、

小麦粉の生地を、包丁でけずりとるようにそいで、

お湯の中にいれ、ゆがいていただくので、

イタリアのパスタにも似ていますね。

 

平べったい形の麺に、スープがしみこむと、

もちもちっとして、おいしいんです。

 

見つけたお店は、四川料理の看板もだしていたので、

もしかしたらちょっぴり辛めなのかも?

辛いのはいいけど、赤い汁が飛ぶとやだな、

とも思いましたが、

 

カウンター席もある、食堂な雰囲気の店内は、

時間がまだ早いこともあって、

それほどお客が入っていません。

ただ、なんとなく、

ここには人の集まる気配があるというか、

なかなかイイ感じなのでは??というカンが働いたので、

エイっと、入ってみることにしました。

 

チャイニーズのシェフが二人、

ホールの女の子が一人、

メニューをみると、麺を中心にギョーザや炒め物もあります。

ここはやはり、最上段に記されている、

牛肉刀削麺をオーダーすべきでしょう!

あと、五目チャーハンも頼みました。

 

オーダーするとき、

ホールスタッフがチャイニーズの若い男の子に交代していました。

もし、食べきれなかったら、持って帰れる?と聞くと、

大丈夫です、とのこと。

刀削麺、辛い?とたずねると、

からくないです!!と強調。

でも、念のためのチャーハンです。

 

しばらくして運ばれてきた牛肉刀削麺、

白いスープの上に、赤いタレが半分かかっています。

やっぱり辛そう?と思いましたが、

一口のんでみて、ほとんど辛くないと分かりました。

辛いというより、コクがあってまろやかなのです。

ほろほろにほどける煮込み牛肉も、

スープにマッチしていました。

 

オークランドで食べたことのある刀削麺とは、

スープの種類がまったく違いましたが、

端っこが少し縮れた麺は、

こちらの方が、しっかりしていて、

もっちり感も強いです。

 

しばらくすると、予想どおり、

会社帰りのサラリーマンたちもたくさんやってきて、

ビール片手に、いくつかのアテをたのみ始めました。

おいしそうでした。

 

チャーハンは、あつあつの小粒な具入りで、

ふつうに美味しい感じです。

やはり、全部は食べきれずに持って帰ることに。

 

食べ終わって、しばらくぼんやりしていると、

カウンター越しに、大将らしきシェフが、

麺を削っているのが見えました。

 

大きな白いかたまりを片手にかかえて、

もう一方の手でシャッシャッと麺をそぐようにして、

お鍋のなかに入れていっています。

 

ああ、これが刀削麺たる名前の由来の作り方なのだな。

 

手さばきを見たのは初めてでした。

まさに生めん、生パスタならぬ生中華麺。

それを作っているところも見ることができて、

ちょっと得した気分になりました。

 

横浜中華街もいいですが、

少し離れて、こういうところもいいですね。

中国人味付けが苦手でない方、現地の味を試したい方はぜひ。

 

伊勢左木長者町駅近く、

華隆賓館というお店で、

調べてみたら、なかなか有名、

知る人ぞ知るお店のようでした。